現在、東京都内でUber Eats の配達員として働くAさん、44歳。
1981年、ベトナムのホーチミンに生まれた。幼くして実母と妹を亡くし、難民キャンプでの生活を経て、9歳で日本へ来た。
日本語がわからず、家庭にも居場所がなかった。食べるものに困り、定時制高校へ進学したあとには、住む場所まで失った。
当時の夢は、将来の成功でも、憧れの職業に就くことでもない。
ただ、お腹いっぱい食べることだった。
やがて結婚し、2人の子どもに恵まれた。幼い頃から憧れ続けた「普通の家庭」を、ようやく持つことができた。
しかしAさんは、子どもたちとどう接すればよいのかわからなかった。仕事を理由に家族から距離を置き、その後、離婚。子どもたちとは10年以上会っていない。
事業を立ち上げ、恵まれない環境にいる人の人生を変えようとしたこともある。だが、事業は失敗し、信頼していた友人との関係も失った。
現在は配達員として働きながら、自分の生活を立て直している。
一番嬉しかったことは、子どもが生まれたこと。
一番つらかったことは、その子どもたちと離れたこと。
「いつか、ちゃんと誇れる人間になってから会いたい」
愛され方を知らずに育ち、自分の家庭を求めながら、その家族とも向き合えなかった。
多くのものを失った今、Aさんは何を思い、これからどのように生きようとしているのか。
その人生を、一つずつたどった。
PROFILE
Aさんのプロフィール
Aさん(仮) A
44歳|ベトナム出身・東京都|Uber Eats配達員
ベトナム・ホーチミン生まれ。幼少期に家族と祖国を離れ、マレーシアの難民キャンプを経て9歳で来日した。言葉や貧困の壁を乗り越え、運送業や飲食業、会社経営などを経験。現在は東京都内でUber Eatsの配達員として働きながら、これまでの人生と家族への思いに向き合っている。
「いつか子供たちに会いたい。ちゃんと誇れる人間になってから。」
TIMELINE
人生年表
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1981年
ベトナム・ホーチミンに生まれる
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1983年
亡命途中の船の事故で実母と妹を亡くす
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1986年
再び祖国を離れ、マレーシアの難民キャンプへ
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1990年
9歳で家族とともに来日。日本語を一から学ぶ
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10代
住む場所を失い、定時制高校を中退
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20〜30代
結婚・子育てを経験し、運送業や飲食業を開業
-
現在
東京都内でUber Eats配達員として働く
FROM VIETNAM TO JAPAN
ベトナムから難民キャンプを経て日本へ——9歳で始まった新生活
Aさんは1981年12月、ベトナム南部の都市・ホーチミンで生まれた。
1歳だった1983年3月、家族はベトナムからの亡命を試みた。しかし、乗っていた船が途中で沈没。Aさんは、この事故で実母と妹を失った。
最初の亡命は失敗に終わり、父とAさんはベトナムへ戻った。その後、父は再婚する。
当時のAさんは、実母と妹に起きたことを知らなかった。父が再婚したことも理解しておらず、そばにいる女性を実の母親だと思って育った。
家族は一度目の失敗で、国外へ逃れることを諦めたわけではない。
1986年、父、継母、Aさんの3人は、再びベトナムを離れた。Aさんが4歳の頃だった。
二度目の亡命でマレーシアへ渡り、その後は難民キャンプで暮らした。
家族が日本へ来たのは、約4年後の1990年7月。Aさんは9歳になっていた。
父、継母、Aさん、そして7歳年下の弟。家族4人で、日本での生活を始めた。
しかし、日本語はまったくわからなかった。身近に頼れる人もいない。
周囲の人が何を話しているのか、自分に何を求めているのかも理解できない。困っていても、助けを求める言葉が出てこなかった。
Aさんは、とにかく日本語を覚えようとした。
将来のためというより、目の前にある生活についていくためだった。日本で暮らしていくには、まず言葉を理解しなければならない。
Aさんにとって、日本語を学ぶことは勉強であると同時に、この国で生きるために必要なことだった。
幼い頃の夢を尋ねると、Aさんはこう振り返った。
「夢を見るほど、余裕がある生活ではなかった」
生まれた国を離れ、難民キャンプを経て、言葉のわからない日本へ来た。
将来なりたいものを考えるより、まず新しい環境で暮らしていかなければならなかった。
Aさんの日本での人生は、生きるために言葉を覚えるところから始まった。
A PLACE TO BELONG
家庭に居場所がなかった幼少期——「どうして僕だけ」と思い続けた
日本での生活が始まっても、Aさんは家庭の中に安心できる場所を見つけられなかった。
父と継母から厳しく叱られ、体罰を受けた。食事を与えられないことも、一度や二度ではなかったという。
当時は、それを親から子どもへの「躾」だと思っていた。
しかし、大人になった今、Aさんははっきりと口にする。
「あれは虐待だったと思います」
小学生だったAさんは、炊事、洗濯、掃除をこなし、7歳年下の弟の送迎も担った。
同年代の友達と遊んだ記憶は、ほとんど残っていない。お小遣いをもらうこともなく、家にあるおもちゃは弟に与えられた。自転車も買ってもらえなかった。
それでも、弟がAさんと同じように扱われることはなかった。
厳しく叱られ、体罰を受けるのは自分だけだった。
「どうして僕だけなんだろう」
Aさんには、その理由がわからなかった。
父も助けてはくれなかった。継母と一緒になってAさんを叱った。家の中に、自分を守ってくれる大人は誰もいないと感じていた。
中学2年生のとき、Aさんは、それまで知らされていなかった家族の過去を知る。
母だと思っていた女性は、実の母親ではなかった。
実母と妹は、Aさんが幼い頃、ベトナムから亡命する途中の船の事故で亡くなっていた。
Aさんの中で、それまで理解できなかった弟との扱いの違いが、一つにつながった。
「本当の母親じゃないとわかって、ようやく理解しました。だから自分は愛されないんだって」
それが本当に父や継母の考えだったのかはわからない。
しかし当時のAさんには、自分だけが違う扱いを受ける理由を、そう理解するしかなかった。
周囲の同級生の家庭が、羨ましく見えた。
車があり、一軒家に住み、自転車を買ってもらえる。友達と遊ぶ時間があり、家へ帰れば食事が用意されている。
Aさんが羨ましかったのは、物の多さだけではない。
子どもとして親に守られ、安心して暮らせることだった。
Aさんは、裕福になりたかったわけではない。
ただ、「普通の家庭」で暮らしたかった。
けれど家庭の中で芽生えた「自分は愛されない」という思いは、その後も消えなかった。
それはやがて、Aさんが自分の家庭を持ったときにも、子どもとの向き合い方に影響することになる。
HUNGER AND HOPE
給食の残りや廃棄弁当を持ち帰った日々——夢は「お腹いっぱい食べること」
子どもの頃の夢を尋ねると、Aさんはこう答えた。
「夢を見るほど、余裕がある生活ではなかった」
将来なりたい職業を考えること。欲しいものや、行ってみたい場所について話すこと。
Aさんは、そうした夢を「普通の人に与えられた贅沢」だと考えている。
当時のAさんが直面していたのは、もっと切実な問題だった。
食べるものがなかった。
中学生の頃、給食を食べ終えたあと、給食室へ忍び込んだ。残されていた食べ物を袋に入れ、家へ持ち帰った。
コンビニのゴミ箱から、廃棄された弁当を取り出したこともある。
食べ物を選べる状況ではなかった。空腹をしのげるのであれば、誰かが捨てたものでも持ち帰った。
「あの頃の夢は、お腹いっぱい食べることでした」
一日の食事を心配せず、満足するまで食べる。
多くの家庭で繰り返される日常が、Aさんにとっては簡単にかなわない願いだった。
中学3年生になると、近所の印刷会社でアルバイトを始めた。
働き始めた理由は、修学旅行へ行くためだった。
家庭に費用を出してもらうことは期待できない。同級生と同じように修学旅行へ参加するには、自分で働いてお金を用意しなければならなかった。
その後、Aさんは定時制高校へ進学する。
そこで、のちに一生の親友だと思うほど信頼する同級生と出会った。
しかし、高校生活は長く続かなかった。
入学して最初の夏休みを迎える前、Aさんは家を追い出された。
初めは友人の家を頼った。その後は友人が住むアパートの屋上や、アルバイト先だったラーメン店の客席で夜を過ごした。
住む場所の定まらない生活は、数カ月ほど続いた。
アルバイト先で知り合った20歳ほど年上の女性の部屋で暮らした時期もあった。ハローワークで見つけた中華料理店で働き、その店の寮に身を寄せたこともある。
仕事は、夢を実現するためのものではなかった。
食事を得るため。
眠る場所を確保するため。
その日を生きていくために、働く必要があった。
定時制高校では留年し、やがて中退した。
安心して帰れる家があり、毎日の食事がある。Aさんが求めていたのは、特別な成功ではない。
一度でいいから、もう食べられないと思うほど、お腹いっぱいになることだった。
WORKING AS A FOREIGNER
外国人というだけで面接を断られた——偽名で働いた10代
定時制高校を中退したAさんにとって、働くことは生活そのものだった。
しかし、当時は外国人というだけで面接を断られることがあった。仕事内容や経験を見てもらう前に、名前や出身を理由に働く機会を失った。
「どこに勤めても、長くは続きませんでした。あの頃は、外国人というだけで珍しかったですから」
採用されても、周囲と同じように扱われるとは限らなかった。
職場で物や金銭がなくなると、Aさんが真っ先に疑われた。
何もしていなくても、最初から疑いの目を向けられている。仕事を覚え、真面目に働くだけでは、その目を変えられないこともあった。
それでも、仕事をしなければ生活できない。
Aさんは、偽名を使って日雇いの仕事をしたこともある。
本名を名乗れば外国人だとわかり、断られるかもしれない。まず働く場所を得るために、自分が何者なのかを隠さなければならなかった。
携わったのは、主に肉体労働や運送業だった。
体を動かし、荷物を運び、与えられた作業を終える。学歴や経歴よりも、目の前の仕事ができるかどうかを見てもらえる現場だった。
しかし、仕事が変わるたびに、また一から自分を説明しなければならない。
本当の名前を名乗るのか。
外国から来たことを、どこまで話すのか。
相手は自分を受け入れてくれるのか。
Aさんは、働き始める前からそれを考え続けた。
当時の憧れを尋ねると、Aさんは「今考えれば、日本人として生きたかった」と振り返る。
特別な扱いを求めていたわけではない。
出身地だけで判断されず、ほかの人と同じように面接を受け、働き、その仕事ぶりを見てもらいたかった。
家庭では、自分だけが弟とは違うと感じていた。
社会に出てからも、周囲との間に見えない境界があるように感じた。
人を信用してよいのか。自分のことを、どこまで話してよいのか。
答えを見つけられないまま働き続けていた20歳の頃、Aさんはある運送会社で、沖縄出身の先輩と出会った。
日本へ来てから初めて、「自分に優しくしてくれた」と感じる人物だった。
A LIFE-CHANGING ENCOUNTER
運送会社で出会った沖縄出身の先輩——日本で初めて感じた人の優しさ
Aさんが20歳の頃に勤めていた運送会社に、沖縄出身の先輩がいた。
その人との出会いについて、Aさんはこう振り返る。
「日本に来て、初めて人に優しくされたと感じたのが、その先輩でした」
家庭では父と継母を恐れ、社会へ出れば外国人として疑いの目を向けられた。
Aさんにとって、人を信じることは簡単ではなかった。
それでも、その先輩から受けた優しさは、長い年月が過ぎた今もAさんの中に残っている。
何か大きな援助を受けたからではない。
自分を最初から疑わず、一人の人間として接してくれた。それまで当たり前に受け取ることのできなかった人の温かさを、先輩との関わりの中で初めて感じた。
尊敬する人物を尋ねると、Aさんは今も、その先輩を挙げる。
社会的な肩書きや成功ではなく、自分にどう接してくれたのか。
それが、Aさんにとって人を信頼する大きな基準になっている。
Aさんの好きな言葉に「山如重恩」がある。
そして、もう一つ大切にしているのが「Pay it Forward」だ。
誰かから受けた善意を、その相手へ返すだけではなく、別の誰かへつないでいく。好きな映画も、その考えを題材にした『ペイ・フォワード』だという。
人から受ける優しさが、Aさんにとって当たり前ではなかったからこそ、一度受けた恩を忘れない。
そして、自分もいつか、助けを必要としている誰かへ手を差し伸べたい。
Aさんはその後、アジアの恵まれない環境にいる子どもたちを支援する活動へ進んでいく。
その歩みには、運送会社の先輩から受け取った優しさと、「Pay it Forward」という考え方が重なって見える。
Aさんの人生では、この先、人を信じたことで深く傷つく出来事も起きる。
それでも、20歳の頃に出会った先輩への信頼は失われなかった。
人は怖いだけの存在ではない。
信じられる人もいる。
Aさんにとって、そのことを初めて実感させてくれた出会いだった。
BUILDING A FAMILY
23歳で父親に——幼い頃から憧れた「普通の家庭」
Aさんが23歳のとき、長男が生まれた。
子どもが誕生した瞬間を、Aさんは「人生で一番嬉しかったこと」として覚えている。
家庭の中に居場所がなく、親から愛されていると感じることのできなかった幼少期。
周囲の同級生が家族と過ごす姿を見ながら、Aさんは長い間「普通の家庭」に憧れていた。
だからこそ、自分の子どもが生まれたことには、大きな意味があった。
守りたいと思える存在ができた。
自分にも、家族と呼べる人たちができた。
「最悪の家庭環境で育ったから、自分の家庭をとにかく早く持ちたかったんです」
2人目の子どもを授かったことをきっかけに、Aさんは24歳で結婚式を挙げた。その後、妻の故郷である東北地方へ移り住んだ。
妻がいて、子どもたちがいる。
帰る家があり、家族で同じ時間を過ごす。
周囲にとっては特別ではない光景でも、Aさんにとっては長い間手に入らなかった暮らしだった。
人生の思い出を尋ねたときも、Aさんが挙げたのは子どもたちのことだった。
仕事や事業の成功ではない。
子どもが生まれた瞬間と、一緒に過ごした時間が、人生で最も大切な記憶として残っている。
幼い頃のAさんは、自分がなぜ厳しく扱われるのかわからなかった。父と継母を恐れ、守ってくれる人がいないと感じながら育った。
だから、自分の子どもたちには、同じ思いをさせたくなかった。
しかしAさんには、父親としての手本にできる記憶がほとんどなかった。
子どもが失敗したとき、どのように声をかけるのか。
悲しんでいるとき、どう寄り添えばよいのか。
大切に思っていることを、どのように伝えるのか。
憧れていた家庭を持つことはできた。
けれど、その家庭の中で父親としてどう振る舞えばよいのか、Aさんにはわからなかった。
FACING FATHERHOOD
子どもを愛しながら、父親として向き合えなかった理由
Aさんは、自分の子育てについて「非協力的だった」と振り返る。
子どもたちを愛していなかったわけではない。
それでも、どう接すればよいのかわからなかった。
幼少期に受けた虐待が、その後も心に残っていた。子どもとどう向き合えばよいのか、Aさんにはわからなかったという。
Aさんには、父親として手本にできる記憶がほとんどなかった。
子どもが失敗したとき、どのような言葉をかければよいのか。
悲しんでいるとき、どう寄り添えばよいのか。
愛しているという気持ちを、どう伝えればよいのか。
それを誰かに教わることも、自分が子どもとして経験することもなかった。
Aさんは、家族と向き合う代わりに仕事へ向かった。
子どもたちが眠っている時間に家を出て、眠ったあとに帰宅する。夜間の配達を選ぶこともあった。
家族を養うためには、働かなければならない。
仕事が生活を支えていたことは事実だ。
しかし今振り返ると、仕事だけが理由ではなかったという。
「仕事を言い訳にしていました」
仕事をしている間は、父親として何をすればよいのかを考えずに済んだ。
子どもとの接し方がわからない自分から、目をそらすこともできた。
Aさんが人生で最も大切な思い出として挙げるのは、子どもが生まれた瞬間と、子どもたちと過ごした時間だ。
それでも、心の中で大切に思っているだけでは、その気持ちは十分に伝わらない。
一緒に食事をする。
話を聞く。
言葉にして、大切な存在だと伝える。
当時のAさんには、それができなかった。
つらい家庭環境で育ったことが、子どもとの向き合い方に影響したことは否定できない。
しかしAさんは、それを理由に自分の行動を正当化しようとはしない。
自分が親から愛情を受けた記憶が少なくても、子どもたちに愛情を伝える方法を探すことはできたはずだと、今は考えている。
時間がたってから気づいても、戻ることのできない日々がある。
子どもたちと最後に会ってから、すでに10年以上が過ぎた。現在は連絡を取ることもできていない。
子どもたちを愛していた。
それでも、向き合えなかった。
どちらも、Aさんにとって消すことのできない事実である。
GIVING BACK
個人運送業と飲食店を開業——事業の先に生まれた慈善活動への思い
家族を持ったあと、Aさんは東北地方で個人運送業を始めた。
開業したのは、東日本大震災の翌年頃だった。
若い頃から肉体労働や運送業に携わってきたAさんにとって、これまでの経験を生かした挑戦だった。その後は、飲食店の経営にも乗り出した。
仕事を得ることさえ難しかった10代から、自分で仕事をつくる立場へ。
Aさんの人生は、少しずつ変わり始めていた。
そんなAさんに、新たな目標を与えたのが、偶然目にしたテレビ番組だった。
番組では、一人の日本人女性が、アジアの貧しい地域で食堂を開き、恵まれない子どもたちのために学校をつくる姿が紹介されていた。
女性の名前は覚えていない。
しかし、その活動はAさんの心に残った。
食べるものがない。
学びたくても、学べる環境がない。
生まれた場所や家庭によって、将来の選択肢が限られてしまう。
それは、Aさん自身が経験してきたことでもあった。
日本語がわからない状態で来日し、家庭から十分な支えを得られないまま働き始めた。中学3年生でアルバイトをし、定時制高校も途中で辞めた。
もし、あの頃の自分に手を差し伸べてくれる人がいたら。
人生は違う方向へ進んでいたかもしれない。
Aさんは、アジアの恵まれない環境にいる子どもを、一人でも助けたいと考えるようになった。
目指したのは、無償で日本語を教え、日本企業への就職につなげることだった。
言葉を身につけ、仕事に就き、自分の力で生活できるようになる。それによって、生まれ育った環境に左右されていた人生を変えられるのではないか。
言葉がわからない苦しさも、外国人であることを理由に仕事を断られる悔しさも、Aさんは知っている。
だからこそ、日本で暮らし、働くために必要なことを、自分の経験から伝えられると考えた。
Aさんはこの取り組みを、「人生で最大の挑戦」と振り返る。
活動の詳細は、関係者のプライバシーを守るため、ここでは明らかにしない。
ただ、その根底にあったのは、かつて自分が受け取った優しさを、助けを必要としている誰かへつなぎたいという思いだった。
「Pay it Forward」
Aさんは、自分と同じように、生まれた環境によって選択肢を失いかけている子どもの人生を変えようとした。
その挑戦は、やがて会社の設立へとつながる。
しかし、事業を始めた時期に、新型コロナウイルスの感染が拡大した。
誰かの人生を変えたいと始めた挑戦は、Aさん自身の人生を大きく変えることになる。
FAILURE AND LOSS
会社設立と事業の失敗——親友、家庭、信頼を失って
慈善活動を経て、Aさんは一度、会社員として働く道を選んだ。
その後、周囲から勧められて会社を設立する。
個人運送業や飲食店を経営した経験はあった。しかし、会社を立ち上げ、事業として継続していくことは、それまでとは異なる挑戦だった。
Aさんには、実現したいことがあった。
自分の経験を生かし、恵まれない環境にいる人の人生を変える。その思いを、一時的な活動で終わらせず、続けられる仕組みにしようとした。
しかし、事業を始めた時期に、新型コロナウイルスの感染が拡大した。
社会の動きが止まり、Aさんの計画も予定どおりには進まなくなった。
それでも、簡単には諦められなかった。
自分を信じてくれた人がいる。
期待してくれた人がいる。
助けたいと思っていた人がいる。
その思いが強いほど、事業を続けることにこだわった。
しかし結果として、事業は失敗し、会社は倒産した。
事業の内容や失敗に至った詳しい事情について、Aさんは明らかにしない。関係した人たちにも、それぞれの生活があるからだ。
Aさんは自分の判断を振り返り、最大の失敗は「人をあまりにも信用しすぎたこと」だったと話す。
相手の言葉を信じ、自分の思いも理解してもらえると考えた。人を信じる気持ちと、事業を運営するための冷静な判断を分けられなかった。
定時制高校時代に出会い、一生の親友だと思っていた人物との関係も、事業をきっかけに壊れた。
何が起きたのか、ここでは詳しく触れない。
現在、Aさんはその人を友達と呼ぶことができないという。
信頼していた相手との関係を失ったことは、事業上の損失とは別の傷を残した。
その前後には、家庭との別れもあった。
離婚し、長男と長女とは離れて暮らすようになった。現在、子どもたちとは10年以上会っておらず、連絡も取れていない。
幼い頃から求め続けてきた家庭だった。
子どもが生まれた瞬間が、人生で一番嬉しかった。
その子どもたちと離れたことが、人生で一番つらい出来事になった。
会社を失い、親友だと思っていた人との関係も壊れ、家族とも離れた。
複数の出来事を経験するなかで、Aさんは人を信じることができなくなっていった。
現在、友達と呼べる人はいないと話す。
一方で、Aさんは自分だけを被害者として語ろうとはしない。
事業を始めることを決めたのも、人を信じることを選んだのも自分だった。家族と向き合わず、仕事を理由に距離を置いたことも認めている。
人生で最も大切なことを尋ねると、Aさんは「人と向き合うこと」と答えた。
多くの人との関係を失ったあとに、たどり着いた答えだった。
DELIVERING TODAY
Uber Eats配達員として働く現在——休まず配達を続ける理由
現在、Aさんは東京都内でUber Eatsの配達員として働いている。
配達の依頼を受け、店で商品を預かり、注文した人のもとへ届ける。
一件の配達を終えれば、次の依頼を待つ。今のAさんは、目の前にある仕事を一つずつこなすことに集中している。
朝は、タバコを吸いながらネットニュースを見る。
配達へ出れば、店から店へ、店から注文者のもとへと街を走る。仕事を終えても、翌日には再び配達へ出る。
取材時点で、2カ月以上休みを取っていなかった。
働く時間も、休む時間も自分で決める。
もう一件配達するのか、今日は終わりにするのか。個人事業主であるAさんに指示を出す人はいない。
自分の意思で働ける一方、自分で止まらなければ、いつまでも働き続けることができる。
今のAさんにとって大切なのは、遠い将来の理想を語ることではない。
配達を続けて収入を得て、崩れた生活を一つずつ立て直していくことだ。
休日があるとすれば、スロットへ行く。
好きな場所を尋ねたときも、Aさんはパチンコ店を挙げた。
「何も考えなくていいから、楽なんです」
そこにいる間は、過去の失敗や、離れて暮らす子どもたちのことを考えずにいられる。
休まず働くことも、タバコを吸うことも、スロットへ行くことも、理想的な再出発の姿ではないかもしれない。
それでも、そうした弱さや矛盾を含めて、現在のAさんである。
すべてを乗り越え、前向きに生きている。
そう言い切れるほど、Aさんの人生はきれいに整理されていない。
今の自分へ伝えたい言葉を尋ねると、Aさんはこう答えた。
「こんなはずじゃない。もっと努力しろ」
過去をなかったことにはできない。失った時間も、壊れた人間関係も、簡単には元へ戻らない。
それでも、Aさんは配達へ出る。
まだ人生を立て直したとは思っていない。
立て直している途中にいる。
今日も街を走ることは、Aさんが今できることを積み重ねるための一歩である。
TO MY CHILDREN
10年以上会っていない子どもたちへ——「誇れる人間になってから会いたい」
Aさんには、21歳の長男と20歳の長女がいる。
子どもたちと最後に会ってから、10年以上が過ぎた。現在は、連絡を取ることもできていない。
子どもたちが今、どこで、どのような生活を送っているのか。
父親である自分を、どのように記憶しているのか。
Aさんにはわからない。
人生で一番嬉しかったことは、子どもが生まれたこと。
人生で一番つらかったことは、その子どもたちと離れたこと。
二つの答えの中心には、どちらも子どもたちがいる。
Aさんは、いつか子どもたちに会いたいと話す。
ただし、自分の気持ちだけで、今すぐ会いに行こうとは考えていない。
「ちゃんと誇れる人間になってから会いたいです」
自分が会いたいからといって、子どもたちも会いたいと思っているとは限らない。
長い間離れていた父親との再会が、子どもたちにとってどのような意味を持つのかもわからない。
だからAさんは、まず自分の人生を立て直そうとしている。
会えなかった時間を取り戻すことはできない。
父親としてできなかったことも、なかったことにはできない。
それでも、子どもたちに伝えたい思いがある。
離れて暮らしていても、忘れたことはない。
一緒に過ごせなかった時間を後悔している。
そして、今も大切に思っている。
Aさんが求めているのは、無条件に許してもらうことではない。
自分がしてきたことから目をそらさず、子どもたちの前で人生を隠さずに話せる人間になることだ。
再会が実現するかどうかは、まだわからない。
たとえ生活を立て直したとしても、子どもたちが会うことを望まない可能性もある。
それでも、自分が変わらなければ何も始まらない。
Aさんは今、配達員として働きながら、今日できることを積み重ねている。
その先に願っているのは、大きな成功ではない。
いつか子どもたちの前に立ち、長い間伝えられなかった思いを、自分の言葉で届けることだ。
MESSAGE
未来へのメッセージ
人生から、人生へ。
ここまでの人生を歩んできたAさんは、今、自分の過去をどのように見つめているのだろう。
最後に、仕事や成功についてではなく、人生そのものについて尋ねた。
人生で一番後悔していることは何ですか
「人を信用しすぎたことです」
Aさんは、人生最大の失敗についても同じ答えを挙げた。
信頼していた友人との関係を失い、事業にも失敗した。人を信じたことで傷つき、現在は友達と呼べる人がいないという。
それでも、人生で最も大切なこととして挙げるのは、人との関わりだった。
人生で一番大切なことは何ですか
「人と向き合うこと。家族と向き合うこと。理解しようとすること。人を知ることです」
人を信用しすぎたことを後悔しながら、人と向き合うことが大切だと語る。
一見すると、矛盾しているようにも聞こえる。
しかしAさんが大切にしているのは、相手の言葉を無条件に信じることではない。
相手が何を考え、何を抱えているのかを知ろうとする。自分の思いだけを伝えるのではなく、相手の言葉にも耳を傾ける。
Aさんは、多くの関係を失ったあとに、その大切さへ気づいた。
20歳の自分に言葉をかけるなら
「もっとちゃんと、将来のことを考えるべきだった」
20歳の頃まで、Aさんは食事や住む場所を確保することに追われていた。
将来を考える余裕がなかったことも事実だ。
それでも今のAさんは、もっと早く先のことを考え、別の選択をするべきだったと振り返る。
今の自分に言葉をかけるなら
「こんなはずじゃない。もっと努力しろ」
Aさんは、現在の自分を人生の完成形だとは考えていない。
過去の環境や周囲の人だけに原因を求めるのではなく、自分にもできたことがあったのではないかと問い続けている。
それは自分を慰める言葉ではなく、もう一度立ち上がるために、自分を奮い立たせる言葉である。
80歳の自分に言葉をかけるなら
「もう死んでる」
Aさんは、そう短く答えた。
その答えを、無理に前向きな表現へ言い換えることはしない。
遠い未来の自分を思い描くよりも、Aさんは今、目の前にある生活と向き合っている。
人生で一番感謝していることは何ですか
「30年以上生き別れになっていた、亡くなった母の家族に会えたことです」
Aさんは、実母側の家族とアメリカで再会した。
幼い頃に亡くした母。中学2年生になるまで知らなかった、自分の家族の過去。
再会の詳しい経緯は、ここでは記さない。
それでも、30年以上離れていた家族と会えたことを、Aさんは人生で最も感謝している出来事として覚えている。
未来を生きる誰かに、人生について伝えたいことはありますか
「日本に生まれる。これだけで幸せだと思って生きなさい。そして、世界を見て、自分より不幸な人がいないか探してみるといい。当たり前だと思っている生活や暮らしは、誰のおかげなのか考えたほうがいい」
どこで生まれても、それぞれの苦しみがある。
Aさんが伝えたいのは、他人の不幸と自分を比べることではない。
安全に眠れる場所があること。
食事があること。
学び、働く機会があること。
自分にとって当たり前になっている暮らしも、多くの人の働きや支えによって成り立っている。
そのことに気づき、もし手を差し伸べられる余裕があるのなら、困っている誰かに目を向ける。
かつて自分が受け取った優しさを、次の誰かへ渡していく。
「Pay it Forward」
Aさんが大切にしてきたその言葉は、未来を生きる誰かへのメッセージにもつながっている。
ライター編集後記
人と向き合うことから、もう一度
Aさんが求め続けてきたものは、特別な成功ではなかった。
お腹いっぱい食べられること。
安心して眠れる場所があること。
帰る家があり、そこに家族がいること。
子どもの頃のAさんにとって、それらは当たり前に与えられるものではなかった。
やがて結婚し、2人の子どもに恵まれた。
長い間憧れていた「普通の家庭」を持つことができた。
しかし、家庭を持つことと、家族に向き合うことは同じではなかった。
子どもたちを愛していながら、その気持ちをどう伝えればよいのかわからない。Aさんは仕事を理由に距離を置き、父親として向き合うことから逃げた。
会社を立ち上げ、誰かの人生を変えようとしたこともある。
自分と同じように、生まれた環境によって選択肢を失いかけている人を助けたいと考えた。
しかし、その挑戦も思い描いた形にはならなかった。
現在、AさんはUber Eatsの配達員として働いている。
過去への後悔は消えていない。子どもたちとは10年以上会えないままだ。
それでも、Aさんには願っていることがある。
いつか、子どもたちに会うこと。
ただ会うのではなく、誇れる人間になってから、自分の言葉で思いを伝えること。
再会がかなう保証はない。
過去をやり直すことも、失った時間を取り戻すこともできない。
変えられるとすれば、これからの選択だけだ。
人生で一番大切なことを尋ねると、Aさんは「人と向き合うこと」と答えた。
家族と向き合う。
相手を理解しようとする。
人を知ろうとする。
それは、Aさんがこれまで十分にできなかったと感じていることでもある。
すべてを乗り越えた人が、正しい生き方を教えているのではない。
向き合えなかった過去を認め、失ったものを抱えながら、これからどう生きるかを考えている人の言葉だ。
Aさんの人生は、まだ結論にたどり着いていない。
今日も働き、今できることを一つずつ積み重ねていく。
人と向き合うことから、もう一度始めるために。


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